死に臨む

 

 マスコミには暴力と死にまつわる情報が氾濫していますが、じつは死や臨終を上辺だけでとらえているにすぎません。シュリーラ・プラブパーダは「精力的に働いている人は、自分もかならず死に直面するという赤裸々な事実を忘れている」と指摘します。どのようにして死を迎えるべきなのか。この小論(1960年発行のタブロイド版の『バック・トゥ・ゴッドヘッド』誌に初掲載)で、シュリーラ・プラブパーダは、『シュリーマド・バーガヴァタム』がさずける古代の教えのなかにその答えがある、と説いています。

 

幼い子どもは父親と歩きながら、次から次にいろいろなことを聞いてきます。突拍子もないことばかりですが、父親はちゃんと答えてわが子を満足させてあげなくてはなりません。若い父親だった私は、家族と暮らしていたころ、よく次男から質問攻めにあいました。ある日のこと、路面電車に乗っていると窓から花婿の行列が見えました。4才の次男はいつものように、この大勢の行列がいったいなんなのか訊きはじめます。結婚式の行列について百も2百も教えてもらってから、最後に聞きました。「おとうさんは結婚したの?」。私たちのやりとりを聞いていた年配の男性たちは大笑い。次男は、私たちが笑っているのがわからずきょとんとしていました。とにかく、かれは結婚した父親の説明にどうにか満足したようでした。

 このできごとから、人間は理性的動物だからこそ尋ねるもの、ということがわかります。質問の頻度に応じて、知識や科学が発達します。若い世代は老いた世代に問いかけます。物質文化は、その世代間の問いかけによって維持されているのです。年長者が若者の質問に正しく答えれば、文化は一歩一歩発展していきます。しかし、知性に長けた人は死後の世界について聞くものです。知性の足らない人はあまり質問をしませんが、賢い人の質問は内容がより高度になっていきます。

 そのような知性ある人に、マハーラージ・パリークシットという全世界を治めていた偉大な王がいました。マハーラージ・パリークシットはブラーフマナに呪われて7日以内に死ぬことになっていました。ブラーフマナといっても小さな子どもでしたが、強力な神秘力を持っていたため、また偉大な王がどれほど重要な人物か知らなかったために、愚かにも、7日以内に死ぬように呪ったのでした。事情を知った父親はわが子の愚行を嘆きました。王に呪いをかけたのは、父親が王に侮辱されたからです。王は不運な呪いの言葉を聞き、すぐに宮殿を出て、都の近くを流れていたガンジス川の岸辺に行き、避けられない死にそなえました。偉大な王パリークシット・マハーラージが絶食して死のうとしていることを聞き、偉大な聖者や学者が大勢集まってきました。そして最後に、当時もっとも若い聖者だったシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーがその場に現われ、かれの父ヴャーサデーヴァも列席するなか、この集まりに居あわせたすべての人々から主賓として認められました。王はシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーに最上の席をうやうやしく勧め、7日後どのようにしてこの世を去るかについて意義ある質問をしました。パリークシット王は、偉大な献愛者であるパーンダヴァ兄弟の高貴な子孫にあたり、偉大な聖者シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーに次のようなすばらしい質問をしました。「偉大なる方よ。尊い超越主義者なるあなたにお尋ねします。いまの私にはどのような義務があるのでしょうか。まさにいま、死の淵に立たされております。この苦境に、いまなにをすべきなのでしょう。どうか、主よ。なにを聞き、なにを崇拝し、だれを思えばよいか教えてください。あなたのような偉大な方は、世帯者の家に必要以上とどまることはありません。ですから、死に直面しているいま、あなたがここに来てくださったことを幸運に思います。逼迫したこのとき、どうか教えをお授けください」

 偉大な聖者シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは心地よい言葉で王に尋ねられ、正しい権威にもとづいて答えました。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは偉大な超越的学者であり、すばらしい神聖な性質をそなえた人物でした。ヴェーダ経典を編纂したバーダラーヤナ(シュリーラ・ヴャーサデーヴァの別名)の尊い子息だったからです。

 シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーが答えます。「王よ、あなたの質問はひじょうに適切であり、どの時代であっても、すべての人々にとって有益である。なににも優り、ヴェーダーンタ・ダルシャン(ヴェーダ知識の結論)に裏付けられ、ätmavit-sammataù(アートマヴィトゥ・サマンタである。すなわち真の精神的な姿を知りつくした解放された魂は、超越性に関する知識をさらに深めるために、そのような質問をする」

 『シュリーマド・バーガヴァタム』は、シュリーラ・ヴャーサデーヴァが編纂した偉大な『ヴェーダーンタ・スートラ』(あるいは『シャーリーラカ・スートラ』)に本来の解説を加えた書物です。『ヴェーダーンタ・スートラ』はヴェーダ経典の頂点にあり、精神的知識という崇高な主題に関して核心となる基本的な問いかけが収められています。シュリーラ・ヴャーサデーヴァは大論文『ヴェーダーンタ・スートラ』を編纂したのですが、心のどこかに不満を感じていました。そこにグルであるシュリー・ナーラダが現われ、人格主神について明記するよう勧めました。その助言に従ったヴャーサデーヴァは、バクティ・ヨーガの原則を瞑想し、やがて絶対性と相対性(マーヤー)をはっきりと悟りました。完全な真理を悟ったシュリーラ・ヴャーサデーヴァは、『シュリーマド・バーガヴァタム』(「美しきバーガヴァタム」の意)を編纂しました。その書は、マハーラージ・パリークシットの生涯に関する歴史的事実から始まっています。

 『ヴェーダーンタ・スートラ』は超越性を知る糸口ともいえる質問、athäto brahma jïäsä(アタハ-ト ブラフマ ジギャーサー)、すなわち「いまこそブラフマン(超越性)について問わなくてはならない」という句で始まっています。

 精力的に働いているうちは、自分も死に直面するという赤裸々な事実を忘れがちです。愚かな人は、解決すべき真の人生問題についてみずから問いかけようとしません。死は決して避けられないという歴然とした事実をいつも目のあたりにしているのに、自分は死なない、と考えています。そこが動物と人間の違いです。ヤギは死が迫っていることに気づきません。兄弟たちが目のまえで殺されていても、与えられたおいしい草に夢中になり、殺される順番を静かに待っています。しかし人間なら、仲間が敵に殺されているのを見れば、助けるために戦うか、できれば助かるために逃げだすでしょう。人間とヤギには、そのような違いがあります。

 賢者は自分が生まれたときに死もはじまったことを知っています。毎瞬間死んでいる、寿命がつきれば最期の瞬間が来る、ということがわかっているのです。だから来世にそなえ、生死の繰りかえしという病から救われるために努力します。

 ところが愚かな人たちは、「人間の体は、自然の法則によって課せられた生死の繰りかえしの結果として授かった」ということを知りません。また、魂は生まれも死にもせず、永遠に生きることも知りません。生老病死は、生命体に課せられた表面的な懲罰であり、物質自然とかかわり、そして自分は絶対全体者・神と同じ永遠で神聖な質をそなえていることを忘れた結果です。

 人間には、この永遠の事実・真理を悟る機会が与えられています。だから『ヴェーダーンタ・スートラ』の冒頭には、人間という貴重な姿を授かったからには、ブラフマン(絶対真理)についていまこそ尋ねよ、と助言されているのです。

 知性に欠ける人は、超越的な生き方について決して尋ねようとせず、本来の永遠なる存在とは関係のない無意味な内容にしか関心をしめしません。この世に生まれたあと、母、父、教師、教授、書物など、いろいろな情報源に質問を繰りかえしても、真の人生にまつわる正しい知識は得られません。

 先に説明したように、パリークシット・マハーラージは、7日以内に死ぬと警告され、すぐに宮殿を出て来世にそなえました。王には少なくとも7日間が残されていました。しかし、私たちはどうでしょう? 死ぬことは確実ですが、正確な日数はわかりません。次の瞬間に死ぬかもしれない。マハートマ・ガンジーほどの偉人でさえ、殺されることが予見できず、つき添っていた人々も暗殺の瞬間が迫りつつあることに気づきませんでした。それでも、偉大な指導者としてふるまっているのです。

 人間と動物の違いは、死と生の自覚にあります。ほんとうの人間は自分の正体について自問します。自分はどこから来たのか? 望んでいないのになぜ3つの苦しみを課せられるのか? しかし、幼いころかから毎日いろいろなことを尋ねてきたのに、人生で一番大切なことは聞こうとしない。まさに動物の生き方です。食べる、眠る、恐れる、性を営む、という動物生活に共通する4つの基本事項から照らしてみれば、人間も動物も同じです。しかし人間だけが、永遠なる生活と超越性について有意義な質問ができる知性をそなえています。ですから人生の目的は永遠の生活を追究することであり、また『ヴェーダーンタ・スートラ』も、いまその事実を追究するよう助言しています。人生について有意義な問題を追究しない人は、自然の法則に動かされてふたたび動物世界に生まれます。ですから、愚かな人は物質的科学(食べる、眠る、恐れる、性を営むことなど)に長けているように見えても、自然の法則が押しつける残酷な死の手からは逃げられません。自然の法則は、徳、激情、無知という3つの様式のもとで動いています。徳の条件下にいる人は高尚な精神的な生活に高められ、激情の雰囲気につつまれている人はいま生きている物質界と同じ状態に戻ってきますが、無知の条件にしばられている人は、まちがいなく下等な生物に転落していきます。

 現代文化は、人生の本質について有意義な問いかけができる教育がなされていないために、危険な状態にあります。人々は動物のように、自然の法則によって殺されることを知りません。屠殺場で順番を待つヤギのように、青い草、そしていわゆる楽しい生活にすっかり満足しているのです。そのような現代人の状況を考えて、私たちは『バック・トゥ・ゴッドヘッド』誌のメッセージをとおして人類を救うために微力ながら力を尽くしています。これは、まやかしの方法ではありません。真理の時代が始まるとするならば、この『バック・トゥ・ゴッドヘッド』誌のメッセージがその時代の第一歩です。

 シュリー・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーの教えから見れば、屠殺を待つヤギのように、動物生活の必要原則や問題(食べる、眠る、恐れる、性を営む)のために家族、社会、組織、国、人類に執着し、そして超越性の知識がまったくないグリハメーディー(感覚満足に没頭する世帯者)は動物と同じです。物理、政治、経済、文化、教育、その他諸々の一時的な問題について問いかけても、超越的生活の道について問わなければ、抑えきれない感覚に引きずられて溝に落ちてしまいます。グリハメーディーとはそういう人間を指します。

 グリハメーディーの逆がグリハスタです。グリハスタ・アーシュラム、つまり精神的な家族生活の場は、放棄生活のサンニャーシーと変わりません。世帯者で放棄者階級であろうと、とにかく大切なのは有意義な問いかけをすべきだということです。サンニャーシーでも有意義な質問に関心をしめさなければ偽物のサンニャーシーであり、世帯者(グリハスタ)でも、有意義な質問を好む人は真のグリハスタです。しかしグリハメーディーは、ただ動物が必要としていることにしか興味がありません。そのようなグリハメーディーの暮らしは、自然の法則によっていつも苦しみがつきまといますが、グリハスタの暮らしは幸せに満ちています。ところが、現代文化ではグリハメーディーがグリハスタのふりをしています。ですから、グリハスタとグリハメーディーを見わけなくてはなりません。グリハメーディーの暮らしは忌まわしい行為に満ちています。どのように家庭生活を営むべきか知らないからです。自分の行動を監督・支配している力があることを知らず、未来をどう生きるべきかも知りません。グリハメーディーは未来が見えず、有意義な問いかけをする能力もない。あるのは、はかない現在の暮らしのなかで作りあげた幻想に心奪われ、足かせをはめられている現状だけです。

 夜、グリハメーディーは、睡眠に貴重な時間を無駄にし、映画館やクラブや賭博場など、女性や酒がいくらでも手にはいる場所に出かけて性欲を刺激して時間を浪費します。昼は金集めに奔走し、あるいはお金が充分にあれば家族が快適に暮らせるように使い、貴重な人生を費やします。かれらの暮らしの水準や必需品は、収入が増えればそれだけ増えます。出費も不満もかぎりがありません。こうして、経済発展のための果てしない競争がつづき、人類社会から平和が遠ざかっていくのです。

 だれもが生産活動と消費活動について質問を繰りかえし、そして混乱していますが、最後に頼りになるのは母なる自然しかありません。生産力が落ち、また自然災害のために世の中が混乱すると、計画をたてることしか能のない政治家たちは自然の冷酷さを非難しますが、自然の法則がどのように、だれによって支配されているかという研究は巧みに避けています。しかし『バガヴァッド・ギーター』は、自然の法則は絶対至高者によって支配されていると断言しています。神こそが自然を支配し、自然の法則をつかさどる方です。分不相応な物質主義者は、自然の法則を断片的に研究することはあっても、その法則がだれによって作られたものかは考えようとしません。そんな人間たちのほとんどは、自然の法則をつかさどる絶対者、すなわち神の存在を信じていません。それどころか、さまざまな要素が作用する法則だけにしか興味がなく、そのような相互作用を生じさせる究極原因には目もくれません。その分野について有意義な質問もせず、答えも見いだしていません。しかし、『ヴェーダーンタ・スートラ』の第2節は、ブラフマンに関するもっとも重要な質問に答え、「至上のブラフマン、至上の超越性とは、すべてを発生させた根源の人物である」と言っています。結局、主こそが至高者なのです。

 愚かなグリハメーディーは、自分の体が一時的であることを知らないばかりか、毎日の目にするできごとの真相を見ることもできません。父が死に、母が死に、親戚や隣人が死ぬのを見ているのに、残った家族もやはりいつかは死ぬのではないかという肝心な質問もしません。ときには、家族のだれかがきょうかあすにでも死ぬかもしれないことに気づき、自分もやがては死んでいく、と考えることもあります。また家族代々の移り変わりや、地域社会、世間、国、その他諸々の移り変わりさえも、永遠の価値のないシャボン玉にすぎないことに気づくかもしれません。それでもグリハメーディーは、その一時的なかかわり気をとられるあまり、有意義な質問もしなければ、死んだあと自分がどこに行くのかも知ろうとしません。家族、世間、国というはかないしがらみのために必死に働きますが、この世からあの世へ去っていく自分や他人の未来のために、なにかをしなければならないとは考えないのです。

 列車などに乗ると、見知らぬ人々に会い、同席し、しばらくいっしょに揺られて旅をすることもありますが、やがて1人去り、2人去っていくと、もう2度と顔を合わせることがありません。同じように、長い人生の旅路で、家族、国、社会という一時的な乗り物に同乗することもありますが、やがて別れるときがきて、うしろ髪を引かれる思いで離ればなれになり、2度と会うこともありません。一時的な人間関係や、その一時的な絆の中での友人関係に関する大切な質問はいくらでもありますが、グリハメーディーは、永遠なる事柄についてなに1つ尋ねません。さまざまな指導者たちは、永遠性についてなにも知らないのに、永遠な計画を作ろうと奔走しています。シュリーパーダ・シャンカラーチャーリャは、そのような無知を社会からなくし、万物の内に遍在する非人格的ブラフマンに関連する精神的知識を広めるべく努力した人物ですが、失望して「子どもらは遊びほうけ、青年たちは世俗の恋愛にうつつを抜かし、老人心いえば、挫折と苦しみの人生をなんとか立て直すことに頭がいっぱいになっている。しかし、ああ、なんということだ。ブラフマン・絶対真理のことではだれも有意義な質問をしない」と言いました。

 マハーラージ・パリークシットから教えを求められたシュリー・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、次のように助言して王の適切な質問に答えました。

 

タスマードゥ バハーラタ サルヴァートゥマー

tasmäd bhärata sarvätmä

 

バハガヴァーン イーシュヴァロー ハリヒ

bhagavän éçvaro hariù

 

シュロータヴャハ キールティタヴャシュ チャ

çrotavyaù kértitavyaç ca

 

スマルタヴャシュ チェーッタターバハヤンム

smartavyaç cecchatäbhayam

 

 「バラタ王の子孫よ。一切の苦しみから解放されたいと望む者は、至高の魂、支配者、苦悩の救世者である人格主神について聞き、その方を讃え、また思いださなくてはならない」

(『シュリーマド・バーガヴァタム』 第2編・第1章・第5節)

 シュリー・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、4つの言葉を使って絶対至高者を説明しています。これらの言葉が、絶対者(パラブラフマン)自身と、主と同じ質を持つ他の生命体との違いをはっきりさせています。全生命体がつねに主とともにいるために(だれもがその事実を悟っているわけではありませんが)、絶対至高者は遍在する者(サルヴァートマー)と呼ばれます。至高者は、完全拡張体となってパラマートマーとしてすべての生命体の心臓に住んでいます。ですから、どのような生命体も主と親密な絆があります。この主との親密で永遠の絆を忘れてしまったことが、遠い昔から束縛されている原因です。しかし主はバガヴァーン・最高人格主神ですから、献愛者の呼びかけにすぐに応えます。さらに主は完全な方ですから、その美しさ、富、名声、力、知識、放棄心は、個々の魂にとってかぎりない超越的喜びの源です。ほかの条件づけられた魂たちがそのような富を不完全にでも表わしている様を見ると、個々の魂はその富に惹きつけられますが、不完全な表われでは満足しないため、完璧な富をいつまでも求めつづけます。美、知識、放棄心において、至高者に匹敵する者はいません。さらに主はイーシュヴァラ(至上支配者)でもあります。私たちはいま、この偉大なる支配者の管理下にあります。すなわち法に背いたために、刑事処分を受けているのです。しかし主はハリであるため、私たちを束縛から解放させることができます。つまり精神的存在という完全な自由を授けくれるのです。だからこそ、主について有意義な質問をし、ふるさとに、神のもとに帰っていくことが私たち1人ひとりの義務なのです。