精神指導者はぜったいに必要である
名高い宗教組織ゴウディーヤ・マタの会員たちは、1936年2月にインドのボンベイで開催された集会で、精神指導者シュリーラ・バクティシッダーンタ・サラスヴァティー・ゴースヴァーミーを称える若い会員の、力強く雄弁な言葉に驚かされました。30年後、この若い語り手はクリシュナ意識運動の創設者・精神指導者として世界的にその名を知られるようになりました。シュリーラ・プラブパーダのこの演説は、精神生活におけるグルの必要性を説く言葉として、人々の心に長く残っています。
サークシャードゥ・ダハリトゥヴェーナ サマスタ・シャーストゥライル
säkñäd-dharitvena samasta-çästrair
ウクタス タタハー バハーヴャタ エーヴァ サドゥビヒ
uktas tathä bhävyata eva sadbhiù
キントゥ プラボホール ヤハ プリヤ エーヴァ タッシャ
kintu prabhor yaù priya eva tasya
ヴァンデー グローホ シュリー・チャラナーラヴィンダンム
vande guroù çré-caraëäravindam
「啓示経典では、精神指導者を最高人格主神のように崇拝しなくてはならない、と宣言され、この教えは主の純粋な献愛者が従っている。精神指導者は主のもっとも親密な召使いである。だからこそ、私たちの精神指導者の蓮華の御足に心からの敬意を捧げようではないか」
みなさん。ゴウディーヤ・マタの創設者であり、シュリー・シュリー・ヴィシュヴァ・ヴァイシュナヴァ・ラージ・サバーの筆頭のアーチャーリャ、そして世界的に高名なアーチャーリャ、私たちの永遠の尊師パラマハンサ・パリヴラージャカーチャーリャ・シュリー・シュリーマド・バクティシッダーンタ・サラスヴァティー・ゴースヴァーミー・マハーラージを尊ぶ集まりに参加していただいたことを、ゴウディーヤ・マタ・ボンベイ支部の会員にかわりお礼を申しあげます。
62年前の吉兆なこの日、アーチャーリャデーヴァは、プリーのシュリー・クシェートラ・ジャガンナータ・ダーマでタークラ・バクティヴィノーダの招きに応えて降誕されました。
みなさん。今夜はアーチャーリャデーヴァに敬意をささげるために集会を開きましたが、このようにアーチャーリャデーヴァを称賛することは宗派を超えたものです。なぜなら、グルデーヴァあるいはアーチャーリャデーヴァの本質は普遍的なだからです。私のグル、みなさんのグル、だれかのグルという違いを越えた次元です。グルは一人しかいません。ただ1人のグルがみなさんに、私に、そしてすべての人々に教えを垂れるために無限の姿として現われました。
真の経典から学んだように、グル、アーチャーリャデーヴァは、すべてがいっさいの区別なく絶対真理者に仕えている絶対的世界、人格主神の超越的住居の情報を世に広めています。Mahäjano yena gataù sa panthäù(マハージャノー イェーナ ガタハ サ パンタハーハ)「歴代アーチャーリャの足跡に従え」とは、幾度となく繰りかえし引用される聖句ですが、しかし、はたして私たちがこのシュローカの真義を理解しているでしょうか? この真義を綿密に研究すると、マハージャナは1人であり、超越的世界につづく王道も1つであることがわかります。『ムンダカ・ウパニシャッド』(第1編・第2章・第12節)で次のように述べられています。
タドゥ・ヴィギャーナールタハンム サ グルンム エーヴァービヒガッチェートゥ
tad-vijïänärthaà sa gurum eväbhigacchet
サミトゥ・パーニヒ シュロートゥリヤンム ブラフマ・ニシュタハンム
samit-päëiù çrotriyaà brahma-niñöham
「超越的な主題を学ぶには、絶対真理者に立脚し、師弟継承上にいる真摯な精神指導者に近づかなくてはならない」
この節が説くように、超越的知識を授かるにはグルに近づかなくてはなりません。絶対真理者が1人であることに私たちのあいだに異論はないと確信しています。ならば、グルも2人とはいません。今夜、つつましい尊敬の礼をアーチャーリャデーヴァにささげるために集いましたが、それは、特定の宗教組織のグルに対するものでも、または真理についてさまざまな意見を語る1人のグルに向けられたものでもありません。この方はジャガッド・グル(Jagad-guru)、すなわち私たち全員のグルです。唯一違いがあるとするならば、ある人はこの方に全身全霊で仕え、また他の人々は間接的に仕えているということです。
『シュリーマド・バーガヴァタム』(第11編・第17章・第27節)が次のように述べています。
アーチャーリャンム マーンム ヴィジャーニーヤーン
äcäryaà mäà vijänéyän
ナヴァマニェータ カルヒチトゥ
navamanyeta karhicit
ナ マルテャ ブッデャースーイェータ
na martya-buddhyäsüyeta
サルヴァ・デーヴァ・マヨー グローホ
sarva-deva-mayo guruù
「アーチャーリャをわたしと思い、決して不敬をはたらいてはならない。師をふつうの人間と考え、忌み嫌ってはならない。すべての半神の代表者だからである」
これはアーチャーリャが神と同じ立場にいるということです。師はこの世界の俗事とはなんの関係もありません。一時的なものにかかわるために降誕されたわけではありません。心や感覚器官を使って物質界を楽しもうとする堕落した魂を救うために降誕されました。ヴェーダの光を私たちに照らすために、完璧な自由をさずけるために、降誕されたのです。完璧な自由――それは、人生の旅路において毎瞬間求めるべきものです。
ヴェーダの超越的知識は、最初、神から宇宙の創造者・ブラフマーに授けられました。そしてブラフマーからナーラダに、ナーラダからヴャーサデーヴァに、ヴャーサデーヴァからマドヴァに伝わり、師弟継承のつながりをとおして超越的知識は師から弟子に受けつがれ、主ゴウラーンガ、すなわちシュリー・イーシュヴァラ・プリーの弟子シュリー・クリシュナ・チャイタンニャのもとに届きました。主チャイタンニャはこの超越的伝統を完璧な形で布教されました。現在のアーチャーリャデーヴァは、主チャイタンニャの筆頭の代表者であるシュリー・ルーパ・ゴースヴァーミーからの10番目の伝承者です。いま私たちがグルデーヴァから授かっている知識は、神が授け、そしてブラフマーから各アーチャーリャをとおして受けつがれてきた知識そのものです。私たちはシュリー・ヴィヤーサ・プージャー・ティティという吉兆なこの日を敬慕してやみません。なぜなら、アーチャーリャは、ヴェーダやプラーナ、『バガヴァッド・ギーター』、『マハーバーラタ』、『シュリーマド・バーガヴァタム』などを編纂した神聖なる人物ヴャーサデーヴァの生きた代表者だからです。
シャブダ・ブラフマ・神聖な音の意味を不完全な知覚力で曲解する者は、真の精神的グルにはなれません。正しい規律について真のアーチャーリャから訓練を受けないかぎり、どのような解釈も(これまでマーヤーヴァーディーたちが犯してきたように)ヴャーサデーヴァがしめされた要旨から逸れてしまうのです。シュリーラ・ヴャーサデーヴァはヴェーダ知識の筆頭権威者ですから、まちがった解釈をする者は、たとえあらゆる面で物質的な知識に精通していたとしても、グルとして認めるわけにはいきません。『パドマ・プラーナ』が述べています。
サンムプラダーヤ・ヴィヒーナー イェー
sampradäya-vihénä ye
マントゥラース テー ニシュパハラー マターハ
manträs te niñphalä matäù
「師弟継承上にいる本物の精神指導者の入門を受けなければ、どのようなマントラも効果はない」
それに対し、師弟継承上にいる真のグルから超越的知識を聞いて授かった人や、真のアーチャーリャを真剣に崇敬する人に、ヴェーダ経典の啓示知識が明らかにされます。しかし、その知識は、経験をとおして知識を得ようとする経験主義者には永遠に閉ざされています。それは『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』(第6章・第23節)で明らかにされています。
ヤッシャ デーヴェー パラー バハクティル
yasya deve parä bhaktir
ヤタハー デーヴェー タタハー グラウ
yathä deve tathä gurau
タッシャイテー カティター ヒ アルタハーハ
tasyaite kathitä hy arthäù
プラカーシャンテー マハートマナハ
prakäçante mahätmanaù
「主と精神指導者に対して同時に揺るぎない信念を持つ偉大な魂だけに、ヴェーダ知識の要点がすべておのずとしめされる」
みなさん。私たち人間は、知識が貧弱で、感覚が不完全で、また情報源も限られています。したがってシュリー・ヴャーサデーヴァとその真の代表者の蓮華の御足に身をゆだねなければ、絶対的世界の知識はほんのかけらも理解することができません。私たちは毎瞬間、直接知覚による知識に欺かれています。直接知覚による知識は心が作りあげたものであり、その知識はいつも私たちを欺き、変化し、つねに不安定です。観察・実験という限ら、ゆがんだ方法では、超越的世界についてなにも知ることはできません。しかし、だれでも、シュリー・グルデーヴァやシュリー・ヴャーサデーヴァという純粋な媒介をとおして伝えられる超越的な言葉に真剣に耳を貸すことはできます。みなさん、ですからきょうこそシュリー・ヴャーサデーヴァの代表者の御足に心をこめて身をゆだね、反抗的態度にのために起こる意見の違いを消さなくてはなりません。『バガヴァッド・ギーター』(第4章・第34節)がそう明言しています。
タドゥ ヴィッディ プラニパーテーナ
tad viddhi praëipätena
パリプラシュネーナ セーヴァヤーf
paripraçnena sevayä
ウパデーイクッシャンティ テー ギャーナンム
upadekñyanti te jïänaà
ギャーニナス タットゥヴァ・ダルシナハ
jïäninas tattva-darçinaù
「精神指導者に近づくことで真理を学ぶよう心がけよ。その人物に従順なきもちで尋ね、仕えよ。自己を悟った魂たちは真理を見たからこそ、あなたに知識をさずけることができる」
超越的知識を授かるには、質問と奉仕の真摯な態度で、真のアーチャーリャに身も心もゆだねなくてはなりません。アーチャーリャの導きのもとで絶対者に仕えることが、超越的知識を消化吸収する唯一の道です。きょうこうして集い、アーチャーリャの御足につつましい奉仕と尊敬をささげることによって、理解力が授けられ、アーチャーリャがわけへだてなく伝える超越的知識が理解できるようになるのです。
みなさん。私たちは古代インド文化に多少なりとも誇りを感じていますが、じつは、インド文化の真義を知らないのもかもしれません。古代の物質文化を誇ることはできません。なぜなら、現代のほうが何千倍も発達しているからです。いま私たちは、カリ・ユガという暗闇の時代に生きています。この暗闇とはなんでしょうか。それは物質的知識が後退したから生じたことではない、ことでははっきりしています。物質的知識なら、いまは昔よりはるかに発達しているのですから。この国にはないとしても、近隣国ではいくらでも見られます。現代の暗闇とは物質的知識の後退ではなく、私たちが大切なものを見失っていることをほのめかしているのです。人間生活に不可欠なもの、すなわち人間文化の頂点である精神的発達の糸口を見失っているのです。飛行機から爆弾を落とすことは、原始人が丘の上から敵めがけて石を投げるのと同じ行為であり、文化の発達とはとても言えません。機関銑や毒ガスを使って隣人を殺す技術に優れていても、それは弓矢で敵を殺す技術を自慢にしている原始人の野蛮行為となんら変わりません。また利己主義を高めても、それは少し賢い動物の頭脳と同じです。真の人間文化は、そのような状態はまったく違います。だから『カタ・ウパニシャッド』(第1編・第3章・第14節)が私たちに呼びかけています。
ウッティシュタハタ ジャーグラタ
uttiñöhata jägrata
プラーピャ ヴァラーン ニボーダハタ
präpya varän nibodhata
クシュラッシャ ダハーラー ニシター ドゥラッテャヤー
kñurasya dhärä niçitä duratyayä
ドゥルガンム パタハス タトゥ カヴァヨー ヴァダンティ
durgaà pathas tat kavayo vadanti
「めざめてください、そしてこの人間生活で手にいれた恩恵を理解しようとしてください。精神的悟りの道は、刃の切っ先に似て、歩くにはたしかに困難をきわめます。それが博識で超越的な学者たちの意見です」
人類が忘却の時代にあったとき、インドの聖者たちは独自の、そしてみずからを悟る文化をはぐくみました。みずからを物質的な生命体ではなく、絶対者に仕える精神的で永遠で不滅のしもべであることを発見したのです。いっぽう現代人は、優れた価値判断を捨て、みずからを物質的存在であると思いこんでいるために、生と死の無慈悲な法則に、そしてその結果生じる病気と不安に苦しめられています。この苦しみはどれほど物質的に豊かになってもいやされることはありません。物質と精神はまったく相反するものだからです。それは、魚を水から出し、陸で幸せにしてやろうとする行為と同じです。死にかけている魚の苦しみは、陸というまったく相入れない環境から救ってあげなければ、なくなることはありません。精神と物質は正反対の要素なのです。私たちは精神的生命体です。私たちの生得権である完璧な幸福は、俗世界でなにをしても得られるものではありません。完璧な幸福は、精神的存在という自然な状態にふたたび位置されて初めて手にいれることができます。これこそ、私たちのインド文化独自のメッセージであり、『バガヴァッド・ギーター』の言葉であり、ヴェーダやプラーナの教えであり、そして主チャイタンニャからつづく私たちのアーチャーリャデーヴァを含む真実のアーチャーリャすべての哲学です。
みなさん。アーチャーリャデーヴァであるオーム・ヴィシュヌパーダ・パラマハンサ・パリヴラージャカーチャーリャ・シュリー・シュリーマド・バクティシッダーンタ・サラスヴァティー・ゴースヴァーミー・マハーラージの恩寵で授かった知識を、私たちは完全に理解しているわけではありませんが、師の神聖な口から流れでる尊いメッセージは、苦しめる人類にもっともふさわしいものであることを、私たちは確信しています。私たちはこぞって、師の言葉に忍耐強く耳を傾けなくてはなりません。不必要に反対するきもちを捨てて、超越的言葉に耳を傾ければ、アーチャーリャデーヴァはかならず私たちに慈悲を授けます。アーチャーリャのメッセージにすがれば、私たちは真のふるさと、至高主のもとに帰ることができます。だからこそ、もう一度繰りかえします。師の言葉に忍耐強く耳を傾け、確信とともに師に従い、師の御足にひれ伏しましょう。そうすれば、絶対者とすべての魂に対する奉仕に対する反抗的態度から解放されます。
『バガヴァッド・ギーター』を読めば、体が滅んだあとも、アートマー・魂は消滅しないことがわかります。魂は不変で、つねに新しく新鮮です。火にも燃えず、水に濡れず、風に枯れず、剣に殺されません。魂は消滅せず、永遠であることを『シュリーマド・バーガヴァタム』(第10編・第84章・第13節)も確証しています。
ヤッシャートゥマ・ブッディヒ クナペー トゥリ・ダハトゥケー
yasyätma-buddhiù kuëape tri-dhätuke
スヴァ・ディーヒ カラートゥラーディシュ バハウマ イッジャ・ディーヒ
sva-dhéù kalaträdiñu bhauma ijya-dhéù
ヤトゥ・ティールタハ・ブッディヒ サリレー ナ カルヒチジ
yat-tértha-buddhiù salile na karhicij
ジャネーシュヴ アビヒゲーシュ サ エーヴァ ゴー・カハラハ
janeñv abhijïeñu sa eva go-kharaù
「胆汁・粘液・気でできた無機質の体を自己と見なし、妻や家族を永久に自分のものと考え、自分が誕生した地を崇拝できるものと考え、巡礼地に行ってもその地の水しか見ることができない者、そして精神的真理を悟った賢者を身近に感じることもなく、崇拝も尋ねもしない者たちは、牛やロバと変わらない」
不運なことに、いま私たちは現代人はほんとうのやすらぎを無視し、体という物質的な檻(おり)を自己と思いこみ、愚かな人間になっています。その物質的な檻を無意味に維持することに全エネルギーを傾け、閉じこめられた魂を救うことを忘れています。鳥かごは鳥を破滅させるためにあります。そして鳥は鳥かごを幸せにするためにいるのではありません。この点を深く考えましょう。私たちがしているのは鳥かごの維持であり、芸術や文学をとおして食べ物を心に与えているにすぎません。しかし、この心も希薄な形での物質の一つであり、『バガヴァッド・ギーター』(第7章・第4節)でそのことが述べられています。
ブフーミル アーポ ナロー ヴァーユフ
bhümir äpo 'nalo väyuù
カハンム マノー ブッディル エーヴァ チャ
khaà mano buddhir eva ca
アハンカーラ イティーヤンム メー
ahaìkära itéyaà me
ビヒンナー プラクリティル アシュタダハー
bhinnä prakåtir añöadhä
「土、水、火、空気、空間、心、知性、偽の自我――これらが、わたしの分離した8種類の物質的力を構成している」
私たちは体や心には食べ物をあげていますが、体と心は別次元の存在である魂にはほとんど食べ物を与えようとしていません。ですから、それは自殺行為と言えます。アーチャーリャデーヴァは、そのようなまちがった行為をやめるよう警告しています。ですから、純粋な慈悲と慈しみを授けくださる師の蓮華の御足にひれ伏そうではありませんか。
みなさん。私のグルデーヴァが現代文化の流れを完全に止めようとしていると、一瞬たりとも思わないでください。それはできることではありません。師から学ぶべきことは、逆境に善処する方法であり、真の意識をもっとも高い段階に高めてくれる人間生活の大切さを理解することにあります。まれにしか得られないこの人生を最大限に活用ことを忘れてはなりません。『シュリーマド・バーガヴァタム』(第11編・第9章・第29節)が説いています。
ラブドゥヴァー ス・ドゥルラバハンム イダンム バフ・サンバハヴァーンテー
labdhvä su-durlabham idaà bahu-sambhavänte
マーヌッシャンム アルタハ・ダンム アニッテャンム アピーハ ディーラハ
mänuñyam artha-dam anityam apéha dhéraù
トゥールナンム ヤテータ ナ パテードゥ アヌ・ムリテュ ヤーヴァン
türëaà yateta na pated anu-måtyu yävan
ニフシュレーヤサーヤ ヴィシャヤハ カハル サルヴァタハ シャートゥ
niùçreyasäya viñayaù khalu sarvataù syät
「無数の誕生と死を繰りかえしたあとにこの希な人間生活を得ることができる。そして、たとえその体は一時的ではあっても、最高完成を達成する機会を私たちに与えてくれる。ゆえに冷静な人間は、死ぬ定めにある肉体が朽ち果てていないかぎり、人生の窮極の感性を得るためにすぐに努力をはじめなくてはならない。感覚満足はもっとも卑しい生物でも得られても、クリシュナ意識は人間だけに達成できるのである」
物質的な快楽をむなしく追い求めて、人生を無駄にしてはなりません。食べる、眠る、恐れる、性を営む――人間はこの4つのみを求めて生きるべきではありません。アーチャーリャデーヴァの教えは、シュリー・ルーパ・ゴースヴァーミーの言葉(『バクティ・ラサームリタ・シンドゥ』第1編・第2章・第255~256節)をとおして伝えられています。
アナーサクタッシャ ヴィシャヤーン
anäsaktasya viñayän
ヤタハールハンム ウパユンジャタハ
yathärham upayuïjataù
ニルバンダハハ クリシュナ・サンバンデヘー
nirbandhaù kåñëa-sambandhe
ユクタンム ヴァイラーギャンム ウッチャテー
yuktaà vairägyam ucyate
プラーパンチカタヤー ブッデャー
präpaïcikatayä buddhyä
ハリ・サンバンディ・ヴァストゥナハ
hari-sambandhi-vastunaù
ムムクシュビヒヒ パリテャーゴー
mumukñubhiù parityägo
ヴァイラーギャンム パハルグ カッテャテー
vairägyaà phalgu kathyate
「クリシュナ意識に従って生きている者は完全な放棄階級にある。感覚満足に心を奪われず、体の維持に必要なものだけを受けいれているのである。いっぽう、クリシュナへの奉仕に使えるものごとを物質的だと考えて放棄する者は、完全な放棄の方法に従っているとは言えない」
このシュローカの意味が理解できるのは、動物的な気質しかない者ではなく、理性的感性を充分に高めた人だけにかぎられます。アーチャーリャデーヴァの御足のもとに座り、私たちの正体、宇宙、神、そして神と私たちの絆にまつわる超越的な知識を学ぼうではありません。主チャイタンニャの教えは、生命体へのメッセージ、そして命ある世界へのメッセージです。主チャイタンニャは、すべてが死ぬ定めにあるマルテャローカ、すなわち死の世界にはまったく頓着しませんでした。主は450年前に降誕されました。超越的宇宙―― すべてが永遠で、万物が絶対者への奉仕のために存在する世界――について私たちに説くために降誕してくださったのです。しかしいま、主チャイタンニャの哲学は不徳の輩たちによって歪曲され、主が説かれた至高の哲学が人間社会最下等のものと誤解されています。アーチャーリャデーヴァは比類なき慈悲で、私たちを恐ろしい堕落から救ってくださいました。ゆえに、私たちは師の蓮華の御足に心からつつましくひれ伏すものです。みなさんにその点をお伝えできるのは、私の無上の喜びとするところです。
みなさん。現在の文化的な(あるいは非文化的な)社会の人々が、至高者が非人格的な様相であると信じ、神には感覚も姿もなく、活動もせず、頭も手もなく、楽しみもしないと吹聴し、神を無能な存在に陥れているのは、狂気の沙汰と言わざるをえません。また、精神界について正しい導きを受けず、正しい洞察力のない現代学者たちは、そのような解釈を聞いて喜ぶものです。経験主義者たちも同じように考えています。すなわち、快楽は人間や特定の階級だけが独占すべきものであり、姿のない神は、人間たちのきまぐれな要求を満たすだけの存在と考えているのです。幸運にも、私たちは尊師パラマハンサ・パリヴラージャカーチャーリャ・バクティシッダーンタ・サラスヴァティー・ゴースヴァーミー・マハーラージの慈悲で、そのような恐ろしい病から救われました。師こそが、私たちの目を開いてくださいました。師こそが永遠なる父、永遠なる教え、永遠なる導師です。だからこそ吉兆なこの日に、師の蓮華の御足にひれ伏そうではありませんか。
みなさん。超越的知識に関して、私たちはなにも知らない子どものような存在ですが、それでもグルデーヴァ・尊師は私たちの心に小さなたいまつをかざし、経験的知識という克服しがたい暗闇を照らしてくださいました。いま私たちは安全な境地に導かれ、経験主義的な哲学を聞かされても、尊師の蓮華の御足に身をゆだねる決心を捨てることはありません。また、学識あるマーヤーヴァーダの学者に挑戦し、崇高なヴェーダの情報を構成しているのは人格主神とその超越的なゴーローカでの娯楽だけであることを証明できます。その点については『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』(第8編・第13章・第1節)が明確に説いています。
シャーマチッャヴァランム プラパデェー
çyämäc chavalaà prapadye
アヴァラーッチャーマンム プラパデェー
avaläc chyämaà prapadye
「クリシュナの慈悲を授かるために、私は主のエネルギー(ラーダー)に身をゆだねる。主のエネルギーの慈悲を授かるために、私はクリシュナに服従する」。
さらに『リグ・ヴェーダ』(第1編・第22章・第20節)にいわく、
タドゥ ヴィシュノーホ パラマンム パダンム サダー パッシャンティ スーラヤハ
tad viñëoù paramaà padaà sadä paçyanti sürayaù
ディヴィーヴァ チャクシュル アータタンム ヴィシュノール ヤトゥ パラマンム パダンム
divéva cakñur ätatam viñëor yat paramaà padam
「主ヴィシュヌの蓮華の御足は、すべての半神がめざす最高の目的である。主の蓮華の御足は、空に輝く太陽のようにまばゆい」
ヴェーダ知識を学ぶ基本の書物である『バガヴァッド・ギーター』は、真理を簡潔・鮮明に語っています。経験主義の哲学者はどれほど博学であったとしても、その簡潔・鮮明な真理を理解することはおろか、考えようともしません。そこにシュリー・ヴャーサ・プージャーの秘密が隠されています。絶対至高者の超越的遊戯を瞑想するとき、私たちは主の永遠のしもべであることを誇りに思い、歓喜に満ち、喜々として踊るのです。私の聖なる師に御栄あれ。師こそが、絶えまなくあふれる慈悲により、私たちのために永遠に存在する運動をはじめてくださった方です。いまこそ、師の蓮華の御足にひれ伏そうではありませんか。
みなさん。愚かしい俗世の幻想の束縛から私たちを救うために師が降誕されていなかったなら、私たちは絶望的な束縛の闇から出ることができなかったことでしょう。師が降誕されていなかったなら、私たちは永遠の真理――主チャイタンニャの崇高な教え――を理解できなかったことでしょう。師が降誕されていなかったなら、私たちは『ブラフマ・サムヒター』の第1節にどれほど大切な意味が込められていたか理解できなかったことでしょう。
イーシュヴァラハ パラマハ クリシュナハ
éçvaraù paramaù kåñëaù
サッチドゥ・アーナンダ・ヴィグラハハ
sac-cid-änanda-vigrahaù
アナーディル アーディル ゴーヴィンダハ
anädir ädir govindaù
サルヴァ・カーラナ・カーラナンム
sarva-käraëa-käraëam
「ゴーヴィンダという名でも知られるゴーヴィンダは最高主神で、永遠で、喜びに満ちた精神的体をお持ちである。主は一切万物の根本である。主の原因になったものはなく、またすべての原因の主要な原因である」
私は、これから幾千万の誕生を繰りかえす旅路で、直接仕える機会にはめぐりあえないものと思っています。しかしいつの日か、こうして深く沈んでいる幻想の只中から救われることを確信しています。私は、過去の過ちの報いが受けられるように、わが聖なる師の蓮華の御足に真剣に祈ります。そして聖なる師の確かな慈悲をとおして得られる真実――私が全能なる絶対至高者の微々たるしもべにすぎないという真実を思い出せるよう祈ります。だからこそいま、つつましく師の蓮華の御足のもとにひれ伏します。