第3章 根源を探る

 

『バガヴァッド・ギーター』の不朽なる甘露

 

 幾世紀にもわたって、インドの偉大な哲学者や精神主義者が『バガヴァッド・ギーター』を、永遠なるヴェーダ知識の真髄として称賛してきました。6世紀を代表する哲学者シャンカラも『バガヴァッド・ギーター』の瞑想録で、『バガヴァッド・ギーター』とその神聖なる著者シュリー・クリシュナの栄光を称える詩を詠んでいます。非人格主義者として名高いシャンカラはそのなかで、神の根源なる人格的姿、すなわち主シュリー・クリシュナへの献身を謳っています。シュリーラ・プラブパーダがその意味を解説しています。

 

――1――

 

おお『バガヴァッド・ギーター』

あなた様は18の章をとおして

絶対者の知識という不死の甘露を人類に注ぎます

清らかな『ギーター』よ

あなた様をとおして

主クリシュナはアルジュナの目を開きました

のちにいにしえの聖者ヴャーサが

あなた様を『マハーバーラタ』に編入されました

慈愛あふれる母よ

物質界の暗闇に魂がふたたび生まれぬよう配慮された方よ

あなた様を深く瞑想してやみません

 

――2――

 

おおヴャーサよ

あなた様に心からの敬意をささげます

力みなぎるあなたの知性と目は

大きく開花した蓮華の花びらを思わせます

『マハーバーラタ』という香油で

この知恵の燈火を輝かせたのは

ほかならぬあなたです

 

要旨解説

 

 シュリーパーダ・シャンカラーチャーリャは、物質的な観点からは非人格主義者として知られていますが、sac-cid-änanda-vigrahaùサッチドゥ・アーナンダ・ヴィグラハ、すなわち物質界が創造されるまえから存在していた「永遠・至福・知識という精神的な姿」を否定することは決してありませんでした。至上ブラフマンの人格性を否定するシャンカラーチャーリャの言葉は、sac-cid-änandaサッチダーナンダ)の姿と物質的概念における人格性を混同すべきでないことを説くものでした。シャンカラは『バガヴァッド・ギーター』の解釈書の冒頭で、至高主ナーラーヤナは物質創造界を超越していると述べました。主は物質界が作られるまえから超越的人格性として存在し、物質的な人格性とはなんのかかわりもありません。主クリシュナは至上の人格をそなえた方であり、主の体は物質を超越しています。主は永遠な精神的姿で降誕しますが、愚かな人は、主の体を自分の体と同じものと誤解しています。シャンカラの非人格主義哲学は、クリシュナを物質の体を持つ凡人と捉える愚か者たちへの教えでした。

 凡人が語ったものだとしたら、だれも『バガヴァッド・ギーター』を読もうとはしないでしょうし、ヴャーサデーヴァは歴史書『マハーバーラタ』に編み入れることもなかったはずです。先の詩節によれば、『マハーバーラタ』は古代の歴史書であり、ヴャーサデーヴァはその著者です。『バガヴァッド・ギーター』はクリシュナそのものです。クリシュナは絶対なる最高人格主神だからこそ、主と主の言葉にはなんの違いもありません。どちらも絶対的存在だからこそ『バガヴァッド・ギーター』は主クリシュナと同じように崇拝されるのです。『バガヴァッド・ギーター』をゆがめることなく「ありのまま」の言葉で聞く者人は、主の蓮華の口元からじかにその言葉を聞くのです。しかし不運な者たちは、推論や瞑想で神を知ろうとしている現代人には『バガヴァッド・ギーター』は時代遅れ、と言っています。

 

――3――

 

おおクリシュナ

大海から誕生したラクシュミーの庇護地であるあなたに

心からの敬意を表します

その蓮華の御足になにもかも託した者には

あなた様は望みの木

献愛者に向けて

片方の手には牛を率いる棒がにぎられ

もう片方の手をかかげて

献愛者を祝福しています

触れる人差し指と親指は

あなた様の神々しい知識の証し

至高主よ

『ギーター』という不死の甘露を搾る方

あなた様に深々と敬意を表します

 

要旨解説

 

 シュリーパーダ・シャンカラーチャーリャは「愚か者たちよ、ひたすらゴーヴィンダを崇拝せよ。ナーラーヤナ自身が語られた『バガヴァッド・ギーター』を崇拝せよ」と断言しています。しかし愚かなかれらは、ナーラーヤナを見つける探究をつづけています。その結果、貧弱な知識の持ち主となり、無益なことに時間を無駄にしています。ナーラーヤナが哀れに、そしてダリドラになることは決してありません。そうではなく、全生命体からも幸運の女神ラクシュミーからも崇拝を受ける方です。シャンカラはみずからを「ブラフマン」と呼ぶ一方、ナーラーヤナ(クリシュナ)が物質創造界を越えた至高者であることを認めています。そしてクリシュナを至高のブラフマン、すなわちパラブラフマンとして尊敬しました。なぜなら主クリシュナは全生命体から崇拝されるべき方だからです。『バガヴァッド・ギーター』の真意が理解できない愚か者とクリシュナの敵対者だけが、「クリシュナに服従する必要はない。われわれが完全に服従すべき対象はクリシュナ個人ではなく、クリシュナをとおして語るもの、すなわち誕生も始まりもない『永遠な存在』である」などと言います(『バガヴァッド・ギーター』の解説書を書いているというのに)。まさに、盲へびにおじず、です。それに対し、非人格主義者の筆頭者であるシャンカラが、主クリシュナ自身とクリシュナの書物『バガヴァッド・ギーター』に尊敬の礼を払っているにもかかわらず、愚かな人は「クリシュナ自身に服従する必要はない」と言ってはばかりません。そのような愚鈍な者たちは、クリシュナが絶対的な存在であり、主には内と外の区別がないことを知りません。内と外の違いは二元性の物質界には存在しますが、絶対的世界にその違いはありません。なぜなら、絶対的世界ではいっさいが精神的(sac-cid-änanda)であり、ナーラーヤナすなわちクリシュナは絶対的世界に住む方だからです。絶対的世界では、真の人格性だけが存在し、体と魂の違いはありません。

 

――4――

 

ウパニシャッドは牛の群

牛飼いの子ども主クリシュナは乳を搾る者

アルジュナは仔牛

『ギーター』の至上の甘露はその乳

清らかな知性あふれる賢者は

その乳を飲む者

 

要旨解説

 

 精神的多様性が理解できなければ主の崇高な娯楽もわかりません。『ブラフマ・サムヒター』には、クリシュナの御名、姿、質、遊戯、側近や所持品がすべてänanda -cinmaya-rasa(アーナンダ・チンマヤ・ラサ)であると述べられています。すなわち、主との超越的なふれあいにかかわるものすべてが精神的至福・知識・永遠性という要素で構成されているのです。物質界ではすべてに終わりがありますが、主の御名や姿などに終わりはありません。『バガヴァッド・ギーター』にあるように、愚か者だけが主を嘲笑します。しかし非人格主義哲学の第一人者であるシャンカラーチャーリャは、主自身、主の牛、主の遊戯を崇拝しているのです。

 

――5――

 

ヴァスデーヴァのご子息は

悪魔カムサとチャーヌーラの抹殺者

母デーヴァキーのこのうえない喜び

あなた様は宇宙のグル 世界の導師

おおクリシュナ

心から敬意をささげます

 

要旨解説

 

 シャンカラは、主を「ヴァスデーヴァとデーヴァキーのご子息」と呼んでいます。それは、シャンカラがふつうの物質的な人間を崇拝しているということでしょうか。いいえ、クリシュナの誕生と活動がすべて超自然的であることを知っているからこそ、クリシュナを崇拝しているのです。『バガヴァッド・ギーター』(第4章・第9節)にあるように、クリシュナの誕生と活動は神秘的・超越的であり、クリシュナの献愛者だけしか完璧に知ることができません。シャンカラーチャーリャは愚か者ではありません。クリシュナをふつうの人間と考えて、デーヴァキーとヴァスデーヴァの子でのクリシュナに尊敬の礼をささげているのではありません。『バガヴァッド・ギーター』によれば、クリシュナの超越的な誕生と活動について知ることで、私たちはクリシュナと同じような精神的姿を得て解放に達することができます。解放には5種類あります。クリシュナの体から出ている精神的オーラ(非人格的ブラフマンの光輝)に没入する者は、本来の精神的姿を完全に現わすことができません。いっぽう、自分本来の精神的境地を高めた者は、さまざまな精神惑星に入ってナーラーヤナやクリシュナの交流者になります。ナーラーヤナの惑星に入った者は、ナーラーヤナの姿(4本腕)と同じ姿になり、ゴーローカ・ヴリンダーヴァナというクリシュナの最高の精神惑星に入った者は、クリシュナと同じ2本腕の姿をした精神的姿を得ることができます。主シヴァの化身であるシャンカラは、そのような精神存在をすべて知っていましたが、当時は仏教徒だった従者たちにそのことについて教えませんでした。従者たちには精神界のことが理解できなかったからです。主ブッダは無こそが究極点だと説いていたので、仏教徒に精神的多様性が理解できないのは当然でした。だからシャンカラは、brahma satyaà jagan mithyä(ブラフマ サッテャン ジャガン ミッテャー)「物質的多様性は偽りであり、精神的多様性こそが真実である」と説きました。主シヴァは『パドマ・プラーナ』で、ブッダの説いた虚無哲学の改訂版であるマーヤー(幻想)哲学をカリ時代で説く必要があることを認めています。特殊な状況下で、シャンカラは主の命令に従って布教しなくてはならなかったのです。しかしシャンカラは真意を明らかにしています。言語や文法を巧みに操って推論を重ねても決して救われない、だからクリシュナを崇拝せよ、と言いました。シャンカラがさらに説きます。

 

ジャ ゴーヴィンダ バジャ ゴーヴィンダン

bhaja govindaà bhaja govindaà

 

ジャ ゴーヴィンダン ムーダ・マテー

bhaja govindam müòha-mate

 

サンプラープテー サンニヒテー カーレー

sampräpte sannihite käle

 

ナ ヒ ナ ヒ ラクシャティ ドゥクリン・カラネー

na hi na hi rakñati òukåï-karaëe

 

 「知力に頼る愚かなおまえたちよ。ひたすらゴーヴィンダを崇拝せよ、ひたすらゴーヴィンダを崇拝せよ。おまえたちの文法の知識も詭弁も、死ぬときにはなんの救いにもならない」

 

――6――

 

クルクシェートラの戦場という恐ろしい川を

渡るは勝者パーンダヴァ兄弟

ビーシュマ、ドローナは高い川岸

ジャヤドゥラタはその水

ガーンダーラ王は青く咲く睡蓮

シャリャは鮫 クリパは水流 カルナは怒濤の波

アシュヴァッターマーとヴィカルナは

獰猛なるワニ

そしてドゥリョーダナはまさに渦

しかし、おおクリシュナ、あなた様は渡し守!

 

――7――

 

ヴャーサのことだまは水の流れ

その水上に開花するのは穢れなき蓮華『マハーバーラタ』

さらに『バガヴァッド・ギーター』は

心とらえて離さぬ芳香

豪傑らの説話は満開の花びらが

主ハリのことばで開花する

主こそ カリ・ユガの悪業を打ち砕く方

甘露を求めるミツバチらが

まばゆい光のなかを喜々として群がる

『マハーバーラタ』なる蓮華が

われわれに無上の恩寵を降りそそぎますよう

 

――8――

 

無上の喜びの権化主クリシュナ

あなた様に心からの敬意をささげます

その恩寵と慈愛で

口のきけぬ者さえ雄弁となり

歩けぬ者さえ山を越える

私は主にひれ伏すものです

SSR 3h: May the spotless lotus of the Mahäbhärata

 

SSR 3i: Salutations to Lord Kåñëa

 

要旨解説

 

 愚かな推論者に従う愚かな人は、喜びの権化・主クリシュナに尊敬の礼をささげる意味がどうしてもわかりません。しかしシャンカラは主クリシュナに尊敬の礼をささげています。主シヴァの化身である偉大なシャンカラーチャーリャが模範をしめせば、賢い弟子なら真実が理解できると考えたからです。しかしそれでも、強情な従者たちは主クリシュナに尊敬の礼をささげないばかりか、『バガヴァッド・ギーター』の解説に物質的な意味を加えて歪曲させ、無知な人々をまちがって導き、惑わせています。その結果、『バガヴァッド・ギーター』を読んでも、万物の根本原因である主クリシュナに尊敬の礼をささげて祝福を授かる機会を失っています。全人類にとっての最大の害悪は、『バガヴァッド・ギーター』の意味をねじまげることで、クリシュナの科学やクリシュナ意識を知らないという暗闇のなかに人々をとどめておくことです。

 

――9――

 

光輝く無上のあなた様に敬意を表します

創造者ブラフマー ヴァルナ インドラ ルドラ マルトゥなど

神聖なる生命体が聖歌であなた様を讃えます

サーマの語り手が歌い

ヴェーダの諸節であなた様の栄光を歌い

ウパニシャッドを讃える者たちが一堂に介し

声高らかに宣言します

神々も悪魔らもあなた様の栄光のかぎりを知りません

主に 至高の神クリシュナに ありとあらゆる敬意の言葉をささげます

われわれからの敬意を 敬意を 敬意をささげます!

 

要旨解説

 

 

 瞑想録の第9節は『シュリーマド・バーガヴァタム』の引用になっています。シャンカラがこの第9節を唱えて明らかにしているのは、シャンカラを含む全生命体が主クリシュナを崇拝すべきであるという事実です。さらに、物質主義者、非人格主義者、思索家、「虚無主義」哲学者ばかりでなく、物質的苦しみを受けるにふさわしいすべての人々に指針を与えています――ブラフマー、シヴァ、ヴァルナ、インドラ、その他すべてのデーヴァからの崇拝を受ける方・主クリシュナにひたすら尊敬の礼をささげよ、と。ところが、そのなかにヴィシュヌの名前はありません。ヴィシュヌとクリシュナは同じだからです。ヴェーダやウパニシャッドは、クリシュナに服従する道を理解させるためにある文典です。ヨーギーは主クリシュナを瞑想してみずからの内に主を見ようとしています。言うなればシャンカラの教えは、究極的知識にうといデーヴァや悪魔に対して授けられたものです。シャンカラ心くに悪魔や愚か者に対して、みずから模範をしめすことにより、クリシュナに、クリシュナの言葉に、そして『バガヴァッド・ギーター』に尊敬の礼をささげるように教えているのです。その教えに従わなければ悪魔は恩恵を授かることができません。哲学的推論や見せかけの瞑想で無知な人々を惑わしても、利益はなにもありません。シャンカラはクリシュナにじかに尊敬の礼をささげていますが、それはあたかも、闇のなかで光を探す愚か者に「ここに太陽のような光がある」と教えているようなものです。しかし、堕落した悪魔たちは、太陽の光を恐れて目をあけないフクロウと同じです。フクロウたちは、主クリシュナや『バガヴァッド・ギーター』の教えという崇高な光に目をあけようとしません。ところが、フクロウの閉じた目で『バガヴァッド・ギーター』を解釈し、不運な読者や従者をまちがった道へと導いています。しかしシャンカラは知性に欠けた従者たちのまえに崇高な光を現わし、クリシュナと『バガヴァッド・ギーター』だけがただ1つの光の源であることを教えています。主クリシュナを崇拝し、疑惑をすべて捨てて主に絶対服従せよというのが、真剣に真理を探究する者への教えです。それが人生の最高完成です。そして、知識の地インドからブッダの虚無主義哲学を排斥した偉大なる学者シャンカラの最高の教えなのです。Oà tat sat(オー タトゥ サトゥ